終末のランナー

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クーリエ・ジャポン2月号に掲載されたフィクション短編小説「The Cicrle(サークル)」を読んで考えたこと

デイブ・エガーズ著「The Cicrle」とは

数少ない愛読雑誌のひとつであるクーリエジャポンは月刊のグローバル誌です。※この表現でよいかはわかりませんが…。

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そんなクーリエジャポンの2月号の掲載記事に題目にある短編フィクションが載っていました。短編小説なんて珍しいなぁと思いながら、それとなく見やるとN.Y.TIMEマガジンで取り上げられていたとのこと。

 

それ自体、大した字数ではなかったのと暇をつぶすくらいに読み物に飢えていたこともあって、どれどれと読んでみた。

 

あらすじはこんな感じ。

 

主人公メイはひょんなことから友人アニーに誘われてTheCicrleという、まるでG○○gleを彷彿させる最先端を行くクリエイティブな会社に入社することに。そこでは、さまざまな社員情報が管理され、人事部や上司から逐一チェックが入る。彼女は最初のうちはそんな考え方に対して違和感を覚えていたようだったが、素晴らしい最先端の企業に入社できたことを誇りに思い、そんな会社に報いるため、忠誠を尽くすかのように従う。社内のコミュニティへの参加率を上げたり、FBのようなSNSへのプライベート内容の投稿や返信に熱を入れ始めた。そして、まるで○pple社のような製品紹介の社内プレゼンでは、過剰なまでの透明性を追求した結果として至極当然のように生まれるであろう“ある製品”が紹介される。それを誇らしげに持つサークル社CEOはこう告げる「起こる出来事は、すべて知らなければならない」と。

 

要約すると、こんな感じでしょうか。

 

著者の提起は、これから起こりうる今以上の透明性と個人への干渉ではないでしょうか。

 

この二つは、一見何の関係性もないように思われる。ただ、因果ではないにしろ、相関があるかもしれない。少し立ち止まって考えてみたい。

 

透明性とは、この場合、あらゆる個人情報、それはインターネット上に蓄積されるデータだけを指すのではなく、個人証明書やら、友人同僚との何気ない会話から抽出される些細な会話やらも含まれる。

そして、個人への干渉とは、否定的な表現で言えば、悩みや趣味を共有しなかったり、休日の過ごし方を伝えなかったり、社内の会合に出席しなかったり、に対する過剰な反応として言い表せる。

例えるなら、地方のしきたりに馴染めないものは村八分として追放されるのと同じことだと思う。

そういう意味では、個人への干渉というよりは社会主義的な意味でコミュニティへの強制が色濃く出ているようにも見える。

過度な透明性を追求すれば、当然のように過度な監視が働く。その中で個人が自由に動き過ぎたり、繋がり過ぎたりすれば、まさにし過ぎた事が災いし、自由を奪われ、雁字搦めに縛られてしまう。

これは言い過ぎだろうか。何でも言いあえて、それを無抵抗に受け入れてくれるほど、僕たちは寛容的だろうか。

 

いずれにしろ、透明性はコミュニティへの回帰を強化するための手段と言える。

「全てを知らなければならない」という、どこかキチガイ染みた強迫観念によって 生まれた透明性の追求は手放しに喜べるものではないことをこの小説は示唆している。

それでは、このムーブメントに抗うことが可能だろうか?

私は非常に難しいのではないかと思う。

現に、私自身は気取ったお店や場所に行けば4sqでチェックインし、気に入ったTweetがあればリツイートし、美味しい食事、感動した映画や本があればレビューを書く。これが個人情報としてビッグデータの一部に寄与することなど毛頭考えもせずである。まるで無意識のうちに、それらを自ら提供しているのだ。

今挙げた話だけでも、決してこの小説がフィクションにとどまるものではないことがお分かり頂けるのではないでしょうか。

とにかく達が悪いのだ。無意識のうちに、関与するというのは。

 

僕らは目の前にぶら下げられた飴玉を欲しくなる。その行き着く先が何処かも知らずに。このサークルから逃れることは不可能なのだ。